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神話と昔話の深層心理学

Ⅰ. 悲劇から学ぶ一例としてW

私たち臨床人は悲劇に関心がある。なぜなら、臨床とは人間の悲劇を取り扱う場であり、特に長く語り伝えられている悲劇は、悲劇に巻き込まれた人々の理解の助けとなるところがある。それは、長く広く語り伝えられている物語が、それを読む者や語る者、伝える者の心理を反映しているからである。神話に出てくるイザナミ・イザナキや、物語の<つう><与ひょう>のような心理はどのような人間にもある。でなければ、物語を理解すらできないだろう。関心を持って読むとは、読者が共感的に身を置くことのできる主人公が登場しているということであり、読者は主人公に同一化していることになる。同一化とは、その人の身になって心身が同一と化す心理的な心の動きである。同情や共感という現象は、そういう心理をもとにしている。

もちろん個々の人生はお定まりの物語に還元できるものではない。しかし、文化遺産の中から既成の物語を取り上げて活用することの、私たち臨床家にとっての利点は、個人のプライヴァシーに関する報告を詳細に行わなくとも、人生の問題の本質を議論できることである。それが精神分析の創始者ジークムント・フロイト(1856-1939)の示した文化論の価値であった。一方、日本の若い分析的研究者は文化論をさらに控えているように見えるのだが、それは、話している内容が日本語で自分に食い込んでくることに対する抵抗であると思う。外から輸入された学問が私たちの言葉でその心理に触れることには痛みや抵抗が伴うものであり、その心理学こそ日本的な文化素材を活用してここで論じてみたいところである。自分を出したくないという恥の心理はどこにでもあるが、著者の場合も、この私の個人的な事柄を持ち出さずに自分の内面について考えられるからこそ、文化の深層心理学には価値がある。

Ⅱ. 神話の精神分析

フロイトが神話に関心を抱いたことは特に夢分析の中で示されたが、精神分析の深化に向け広く民間に共有された物語を活用する方法は、「エディプス・コンプレックス」によって広まった。彼はギリシャの「エディプス王」の悲劇から、息子が母親を愛してそのライバルの父親に対して憎しみを抱くというコンプレックスの名をとったのである。彼は神話が「諸国民全体の願望空想の歪曲された残滓、若い人類の現世的な夢」であり、「自分の好きな童話の記憶が自分自身の幼年時代の記憶に代わってしまっている人々がいる」と指摘し、神話や昔話の世界と現代人との連続性を認めた。それで、他の学問領域での神話研究を刺激し、例えば文化人類学者たちの分析や議論を生み出す等さまざまな影響を与えてきたのである。

また、分析心理学のC. G.ユングは夢や患者の妄想や幻覚の内容に、神話の主題やイメージと類似したものを見出して、神話を生み出す場所として、個人の無意識の下層に集合的無意識があると仮定した。文化を重視するユング学派に対し、フロイト学派は、「家族物語」と言うように物語の起源を個人の心理や育ちに還元するところが特徴である。

初期の精神分析では、その還元主義的理解や内容解釈が徹底されて、フロイト学説や自説の証明のための神話を分析素材として扱うことが多かったが、次第に同一化対象の供給などの、人間形成に対する発達促進や自己理解の意義も強調されるようになってきた。 他方、日本のこの面での研究史では、日本の精神分析の父・古澤平作(1932)の論文「罪悪意識の二種」が嚆矢である。そこで彼は、仏教の物語に阿闍世(あじゃせ)という名の王子が登場し、その王子が自分の母に幻滅してこれを殺そうとするが後悔の念や罪悪感に襲われて苦しみ、最後に母親に救われるという話から、「阿闍世コンプレックス」という理論を提起した。「懺悔心」と呼ばれるべきこの罪悪感を、小此木啓吾は、エディプス・コンプレックスの「処罰おそれ型」に対して「許され償い型」であると明確に区別している。

彼らは日本神話を取り上げなかったが、明らかに私の研究は、阿闍世コンプレックス論で取り上げてこられた「母なるものに対する幻滅と罪悪感」論の流れの中にある。 ただし、父に対する母親の愛欲ゆえに子が裏切られて幻滅するという阿闍世物語の詳細は、本書の担当範囲にはないと思うが、許されて生まれるとされる罪悪感の問題は後で論じたいと思う。同名のコンプレックスのことは、古澤の論文を収録して小此木と編集した『阿闍世コンプレックス』(創元社)という本に詳しく書かれている。これも幻滅の一形式なので重要なのだが、本来が日本の物語ではないし、物語変化の問題も同書や他の研究書において検討されているので参考にして頂きたい。ただし、物語も複雑で、議論が多岐に亘る阿闍世物語の問題よりも、本書にとって重要なのは小此木の対象喪失論である。

Ⅲ. 基本はアンビヴァレンス

また、罪悪感が先に述べるように二種類があるにしても、日本において感じられやすい「もう一つの罪悪感」があるという立場に立つものではない。この本で論じようとしている罪悪感や罪意識に関しては、逆に、「見るなの禁止」のために見出しにくくなっているという問題意識であり、それはフロイトの「無意識的な罪」という言葉の通り意識しにくいのである。

理論的には、これから紹介する、メラニー・クラインが究明した罪悪感、あるいはそれをD.W.ウィニコットが「思いやり」と言い換えた二者関係の罪悪感の発生論が分かりやすいし納得できると考える。つまり古澤自身が早くから「母を愛するが故に母を殺害せんとする慾望傾向」と書いた、母なるものに対するアンビヴァレンスが問題の基本なのであり、アンビヴァレンスとは相反する感情や態度の並存を指す。それゆえに対象と自我(=私)との間に生まれる矛盾する関係の中で、罪悪感が発生するという考えであり、それは学派的には英国で発展した対象関係論と呼ばれる立場である。

また日本神話の心理分析のパイオニアの一人である河合隼雄は、ユング心理学の立場から独創的な考察を行っているので、本書でも度々引用されるだろう。これと同時期に、私はイザナキ・イザナミ神話や異類婚姻説話を踏まえて「見るなの禁止」論を展開したが、その概要は後で紹介する。それを通じて、我が国の罪悪感論において必要性を痛感するのは、反射的に回避されやすい不浄感(穢れ)との関係であり、それを分かりやすく示すことが小論の課題の一つとなろう。 これら日本の物語分析は、父親の存在を重く見るエディプス・コンプレックスの議論と比べて、いずれも母子関係や二者関係を重視している。しかし、私は時に日本語の中の第三者である<みんな>のことを意識したいし、それが見る側を見るということである。

『古事記』や『日本書紀』の内容はまだまだ活用できる部分を含んでおり、この研究は国際的な広がりを見せており、母子関係の結びつきが濃厚であるほど神話の創造性は高まるとする分析家D.フリーマン、そしてインドのJ.バサックらもまたその内容を分析している。 これらは長い間人びとに真実だと信じられ、神聖視され、主に言葉で伝えられ、広く共有されてきたものだが、これからもまだ普遍的な思考の抽出ができだろう。社会の中では科学研究においても、そして人生論においても、罪や宇宙の起源を語る神話が「モデル」の役割を果たすことが多いのである。物語そのものが色々姿を変えて再生産され、国民の深層心理を動かし、決定し、また同時に個人におけるその影響について考える機会を提供しているわけである。物語は豊かなイメージを育みながら言葉で伝えられ、理論化に役立つだけではなく、メタファーや象徴的表現の源泉として説得力をもつだろう。また、「家族神話」や「個人神話」という言い方で、タブー視されやすい私的な出来事を比喩的に語る者も多く、深層心理学者としてはこれを活用しないわけにはいかない。

(北山・橋本『日本人の原罪』講談社より)



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